2015年3月1日日曜日

小説の中の蕨

 
 蕨はよその人たちからどのように認識されているのか、30年以上も住んでいると、井の中の蛙、わからなくなっています。他県の人に尋ねてみると、蕨の正確な位置を知らない。興味もない。へたをすると一生縁のない場所。いろいろ言われて悲しくなってきます。
小説・エッセイなどにどんな風に表現されているのか、興味はあるけれど見つけたことはありませんでした。今回蕨駅前の描写を見つけたので、書いてみます。

 しかし、伊勢崎登は、幸か不幸か首都圏在住だった。しかも、最寄りの蕨駅までは、新宿からなら、三十分もあればいける。

埼京線で赤羽まで行き、京浜東北線にのりかえて蕨駅に降り立った。そして西口へ出て、
ロータリーを抜け、中山道方面に向かって歩を進めた。静まり返った住宅地からはどこからともなく夕餉のにおいが漂ってきてる。
                   「ここを過ぎて悦楽の都」平山 瑞穂
 
 どこといって変わったところがあるわけでもない男が住んでいるのが蕨で、主人公がまあ行きにくくもないという理由で訪ねてみているのです。。特筆すべき何かがあるわけでもない町と言うことでしょうか。作者が東口ではなく西口を選んでいることを考えると何らかの土地勘があるように思われますが。

蕨には南限の林檎あり(ちなみに、りんごサイダー今年おめみえします)、ホームページのトリビアをみてもらうと様々な特徴のある町です。コンパクトシティという名前のようにこんなに便利な町は無いのではと思っているのは、私だけでしょうか?足りないのはアピールではないですか?もっと蕨の話をいろいろな場でアピールしましょう。
ちなみに平山瑞穂氏の「冥王星パーティー」最後の20ページ、涙涙です。

 



                               by セイラ

  

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